PJ: 紙野 武広
タウンシューズで雲ノ平(6・終)
2010年09月18日 07:28 JST
朝日を浴びて輝くチンゲルマ。(撮影:紙野武広、8月28日) 
【PJニュース 2010年9月18日】朝起きて、温かいコーヒーをすすりながら再び正一さんのお話を聞いた。パブロ・カザルスのバッハ無伴奏チェロが山荘中に響き渡り、ゆっくりと時間が流れる。だが、時計の針はもう6時を回っている。登山客がいなくなった広々とした空間中で、スタッフたちがおのおのの仕事に取りかかり始めている。そろそろ私たちも出発しなければならない。今日は下山する予定なのだ。コーヒーを飲み干し、ようやく重い腰を上げ出発する。
外に出ると、朝日を浴びた雲ノ平がまぶしく輝いていた。窓からこちらに向かって手を振っている伊藤さん夫妻に別れを告げ、私たちは光り輝く世界の中を歩き出していく。だが、残念ながらこの道の行き着く先は東京だ。新宿の人込みを想像すると、スタート早々気持ちが重くなる。下山は肉体的にもつらいのだが、なにより山を去るという寂しさが足取りを遅らせる。
帰りはルートを変え、真砂岳手前の分岐点から湯俣山荘へ下る竹村新道を行くことにしている。これは湯俣山荘近くの天然温泉に寄り道しようという欲張りプランなのだが、6時までに下山できなければ、お迎えのタクシーを呼ぶことができなくなるので序盤からペースを上げていかなければならない。この竹村新道ってやつが予想以上に強者であったが、天然温泉が待っていると思うと精神的には余裕があった。
そして、その噂の温泉であるが、結局私たちは行かなかった。というより、そこまで行くのが面倒だったので温泉付近の河原に湧き出ている温泉らしき川に入っただけで満足してしまったのだ。こちらの方が純粋に、天然温泉かもしれないが、温度が一定ではなかったので手でかき混ぜて温度調節しなければならなかった。
下山している時、私の頭から離れなかったのは山に生きる人々の顔である。野口五郎小屋、水晶小屋、雲ノ平山荘、私は小屋に着く度にそこで働く人々に癒やされていた。山では雲さえなければ太陽がいつでも見える。そして、人々は太陽と同じ回転で生活する。この円環する時間の中で暮らしているせいなのか、人々の顔は赤ん坊のように角が取れて丸っこくなっている。この柔らかな表情を見ているだけで僕は落ち着くのだ。一方、都会ではビルに隠れて太陽もろくに見えやしない。そして、1秒、1分、1時間、1日とデジタルな単位で日々の生活はブツ切りになって積み重なるだけだ。こんな環境で生活している人はきっと…。
その瞬間ハッとする。果たして私はみんなにどう見られていたのだろうか。取材するという心づもりでいると、どうも自分が見られていることを忘れてしまうらしい。だから余計に、私はそのきっと…の後が怖くなってきた。その後に続く言葉を忌避するように「丸く、丸く」と念じながら、逃げるように山を下りていく。
さて、このルートの一番の難所は湯俣新道から高瀬ダムへつづく平たんな道だ。ゴールを目前にして温泉につかり、もう歩く気力がわいてこない。そんな状態で2時間半も歩き続けるのは苦痛でしかなかった。最後に待ち受ける長い長いトンネル。もうすぐゴールという喜びと数日分の疲れが一気に押し寄せてきた。私たちは無性にかき揚げうどんが食べたくてなり、トンネル内ではかき揚げうどんの話題で持ち切りであった。
高瀬ダムに無事到着して、私はまっさきに憎きタウンシューズを脱ぎ捨ててやった。案の定、靴擦れで足の皮が剥(む)けていた。おまけに、もう一生履いてやるもんかと睨(にら)みつけてやった。だが、最初からこの靴に何の罪はなかったのだ。ただ履いてきた自分が悪いだけだ。それに、一緒に頑張ってきたこの2日間のことを思うと、急に我がタウンシューズがいとおしくなってきた。もうこの靴を登山に履いていくことはないが、記念に洗わず保管しておこう。汚れたまま、大切に。
気づいたら、私は車の中でクシャクシャになって眠っていた。みんなでかき揚げうどんを無言でほお張った後で、私は睡魔にやられてしまったのだった。寝ぼけ眼で外を見ると、ネオンがあやしくうごめき、壁のように立ち並ぶビルが迫ってくる。もう都内に入っていたのだ。ついに帰ってきてしまったと思いながら、少しホッとしていることも確かである。逃げるように東京を出て、結局東京に逃げ帰ってきてしまったのかもしれない。それでも、また私は山へ行こうと思う。たとえそれが同じことの繰り返しになろうとも。【了】
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