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PJ: 石川 信義

昔とんぼの旅日記 - 北ベトナムとラオス北部・スケッチ編(23・終) ホーチミン廟
2010年05月18日 06:14 JST


ホーチミン廟。(画:石川信義) 

【PJニュース 2010年5月18日】1月12日(土) 、ホーチミン廟

今日はこの旅の最終日。旅の締めくくりにホーチミン廟を詣でた。廟には僕の最も敬愛してやまないホーチミンの遺体がガラスケースの中で穏やかに眠っていた。

そもそも、ホーチミンは自分の遺体が永久に保存されることをひどく嫌い、生前から強くそれを拒んでいたという。しかし、彼はベトナム人民の心の支えであり、彼らの心の芯だったから、彼の意志とはうらはらに国家が遺体の保存を望んだ。ベトナム戦争の最中だったから、遺体の保存処理は北爆の激しいハノイを避けてジャングルのなかで行われた。

余談だが、世界で遺体の永久的保存を始めて施されたのはレーニンだった。スターリンもされて遺体がレーニンの横に置かれたが、死後に彼の悪行が告発され、8年後そこから撤去され埋葬されてしまった。中国の毛沢東の遺体は技術者が保存処理に失敗し、葬儀の時の水晶棺に入れられたのは蝋人形だったとか。

ともあれ、今朝、僕はホーチミンの遺体にお辞儀せんものと廟へ行った。しかし、例によって僕のトチリで、危うく墓参りが出来ないところだった。

ホーチミン廟は朝の8時までに廟の前に行ってお参りの列に並ばないと、それ以後は廟に入れてもらえない。8時を過ぎては駄目だという。

よって僕は、7時に目覚し時計をセットしておいたのだが、またもやオンにしておかなかったので時計が鳴らなかった。それで目が覚めたのは8時45分!

「あれっ、これじゃァもう廟に入れない。どうしよう!」

でもそこであきらめる訳には行かない。もう間に合わないやと行くのを止めてしまったら、ホーチミンに申し訳けが立たないではないか。ともかくも行ってみて、それでどうしても廟に入れなかったら仕方がない。ホーチミンの眠る廟に向かって、深く深くお詫びをするしかない。

いやなにホーチミンだって「不可能」を「可能」にした。一縷(いちる)の望みであっても「可能」の方に賭けるんだ、僕だって! 数十秒で仕度をし、ホテルをとび出しタクシーにとび乗って僕は叫んだ。

「ホーチミン廟! 急いでッ!!」

幸いなことに、廟に入る人の列はまだ続いていた。僕は守衛の兵隊に土下座せんばかりに頼みこんだ。お願いです。ホーチミンさんのお墓参りをさせて下さい。このとおりですッ。親切にもその兵隊はうんと肯き、ぼくが列の後ろに加わることを許してくれた。

並びながら廟の建物をあらためて見上げた。大理石で作られていてギリシヤの神殿を連想させる。シンプルなデザインだが、端正・雄渾・壮麗、そんな言葉が頭に浮かんだ。

守衛の兵士が銃を持ち廟のまわりを守る。

並びながら、あらためてホーチミンの生涯を年表でふり返った。

ホーチミンは1890年の生まれ、幼名はグエン・シン・クンだ。15歳にして既に彼は愛国地下活動に加わっている。20歳の時、サイゴンからフランス船の厨房助手となってマルセイユに渡った。船員としてアフリカや北米や南米を廻り、給仕となってロンドンに3年在住する。この頃から彼は国際的な政治活動の組織に参加するようになった。

そのあとの彼の動きはめまぐるしい。ロンドン、パリ、ロシア、そして中国の広州。ここでベトナム青年革命同志会を組織する。ベトナムの独立と自由を勝ちとるための実践活動が始まる。その後も目まぐるしく世界を動き、投獄されたりもするが、1941年、遂に彼は秘密裡に祖国ベトナムへ戻った。直ちにベトミン(ベトナム独立同盟会)を作り、ベトナムの支配者を追い出すための本格的な戦いを開始する。

時に彼は50歳、ホーチミンと名乗るようになったのもこの頃だ。

その後のホーチミンの足跡。フランス軍との戦いとアメリカ軍との戦い。その経緯は周知の通りだ。実に残念なことだったが、1969年、勝利を目前にしながら彼は勝利の日を見ずして心臓病で倒れた。享年、79歳。

廟に入った。彼の眠る石室への道はヒンヤリした冷気が漂っていた。地下道のようなその道をぬけ出たら広々した空間に出た。中央にガラスケースが置かれている。その中にホーチミンの遺体が横たわっていた。

棺の四隅に白い軍服を着た兵士が四人、虚空を見つめ彫像のように身じろぎもしないで立っている。

ホーチミンの遺体には、顔と手の甲の部分に赤い光が当てられていた。その部分が暗闇に浮かび上がって見える。光のせいか、頭部がバカに大きい人のように見えた。写真で繰り返し眺め、僕の頭の中に刻み込まれている「ホーおじさん」のイメージとはちょっと違い、はじめ厳しい顔をしているように見えたが、その顔をじっと見つめていたら、やがて「ホーおじさん」の物静かで優しい表情に変わった。

ホーチミンと対面した時の僕の思いを書くのはやめよう。とても表現できない。

廟を詣でたあと、護衛の兵士に断り廟のスケッチをするべく前庭に座り込んだ。スケッチの締めくくりは旅の締めくくりだ。ホーチミンの端正さにふさわしい廟の端正さを表現したかったが、それには遠く及ばない倭少な絵になってしまった。実際の廟はスケッチのこんなものではとてもない。

廟のすぐ近くに、1969年までホーチミンが住んでいたという家がそのままの姿で保存されていた。二部屋しかない簡素な高床式の木造住居で、その前に池がある。部屋の一室は書斎で小さな机とスタンドと数十冊の本、もう一室は寝室で狭い木製のベットとシーツの上に白くて薄い一枚の蒲団がたたまれている。

高床の下には一台のビーチ用寝椅子が置かれていた。激務の間を縫ってホーチミンは池から来る微風に体をゆだねてひと時の昼寝を楽しんだに違いない。

そんなホーチミンの姿を想像したら少々ほっとするものがあった。

ホーチミンを詣でたら、あとはもう何もするつもりはない。ホテルへ戻って、夜のフライトの時間が来るまで静かにこのメモを書いて過ごした。

あとは成田に向かって飛び立つだけだ。

この記録の稿もこれで閉じる。【了】



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PJ 記者