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PJ: 石川 信義

昔とんぼの旅日記-イラン編(35)
2009年11月26日 07:01 JST


(画:石川信義) 

【PJニュース 2009年11月26日】イラン航空事務所へ寄ったのはやぼ用、成田行きフライトのリコンファーム再確認のためだ。今どき、リコンファームが要る航空会社も珍らしいが、さすがイラン航空でそれが要るんだ。忘れないように僕は掌(てのひら)にマジックで、「リコンファーム」と大きく書いておいた。それを済ませたというわけ。昔、香港でこの手続きを忘れてしまってひどい目に遭ったことがある。搭乗をキャンセルされ、折りから正月とあって空席待ちを二日間させられた。外来をどうしようと大変に困った。僕が旅先から病院へ電話をかけたのは、後にも先にも、この時だけ。

正午近くに、おじいちゃんの会社へ着いた。代わりをやってくれると言って出て来たのは、雲つくような大男だ。格闘家でテレビのコマーシャルなどによく出ている「ボブサップ」とかいう男、比喩は悪いがまるでゴリラ、そんな体格をしている。おまけに顔までが似ている。ボブサップのあだ名はビースト(野獣)だ。そっくりさんだァ、彼を「ボブさん」と呼ぶことにした。

ボブさんはむっつりだ。シーラーズまでの代金を聞いたら、黙って「37万リアル」と書いてこちらへつき出した。おっかないから、おそるおそる「35ドル」とその紙に書いて彼に渡した。彼はそれをチラッと見て、その紙を握りつぶし僕をギロッとにらみつけた。ウヘッと思って首をすくめたら、黙って彼はウムとうなずいた。「これでいい」と言ってくれたらしい。さすがボブだ。鷹揚にあっさり承知だ。僕はひそかに考える。このボブサン、ずうたいはでかくていかついけれど、案外気はやさしいかもしれないぞ。「気は優しくて力持ちィ」と心の中で歌い、こわさをごまかした。

シーラーズ行きも、また沙漠の荒野を突っ走る。今日は長旅、多分6時間以上だろう。長旅に備えて、サンダルを脱ぎ、ズボンのベルトを緩めて、後部座席で足を伸ばす。車はかなり時代がかっていて、かすかにガソリンのにおいがする。ガソリン漏れていない?

スピードは140キロを超えている。ボブさんは無言で、前方をキッとにらんでぶっとばす。直線部分は160キロだ。

おいおい、ボブさん、160キロだよ、分かっていますか? 今はリングで格闘やってるわけじゃないんですよ。

道は、山間部をくぐり、峠に登り、また下り、また登る。山脈を横切ってイランを南下しているのだ。

実に珍らしいことに、途中でポツリ、ポツリと雨が降り出した。前方を見ると青空、雨雲の下を走ったらしく、一分くらいザァーッと降ってすぐやんだ。あとはもう青空だ。

峠を下って、小さな町へ入った。そこの小さな食堂で遅い昼食をとる。僕は羊の肝臓のくし焼き1本。ボブさんは羊のカバブ5本をあれよという間に平らげた。さすがボブサン。

ボブさんは食事中も全然しゃべらない。他の客が入ってきて声をかけても、黙ってオウと手を上げるだけだ。僕はしつこく話しかけて、やっと15歳と20歳の娘が彼にいることを聞き出した。彼の名前は、ペックウッなんとかカントカと答えたが、低い声でよく聞き取れなかった。「ボブ」でいい。

勘定を払う時、給仕の言葉がよく聞き取れなかった。傍のボブさんが「シックスティ・タウゼン」、6万リアルと言ったので、彼に6万リアルを渡して外へ出た。外へ出たら、耳に残ったボブの声の残像は、「シックス・タウゼン」、6000リアルと言ったような気がしてきた。たいした物を食べたわけではないのに、700円はちょっと高いな。お金をボブに渡す時にチラとそう思ったのだが、70円なら納得だ。

店を出てきて、ボブさんはスタスタ、いや、のしのしと車に向かって歩き出した。お釣りを受け取ろうとして出しかけた手を僕はひっこめた。やっぱり6万リアルだったのかな? いくらだった? と聞くのは止めにした。下手に聞いて怒り出されては困る。あの腕でぶんなぐられたら、3メートルくらいぶっ飛んでしまう。「シックス・タウゼン」という残声を打ち消して、ナラヌ堪忍スルガ堪忍、人ハ信用ガ大事、そんな言葉をつぶやいて、ノコノコ彼の後をついて歩いた。

(これは今夜店で買い物をして気づいたのだが、イランの人は1万リアルを「ワン・タウゼン」と言うらしい。それならボブサンのシックス・タウゼンはやっぱり6万リアルだったんだ。よかった。人ヲ疑ウ勿レ。神、空ニシロシメスだな。それにしても、イランの人はどうして1万を1千と言うんだろう? 分からん)

車は見渡す限りの沙漠平原を突っ走り、また山間部へかかる。峠を越え、また下り、また登りするうち、麦畑広がるところへ出た。畑らしい畑を、イランへ来て初めて見た。「シーラーズまで5キロ」と標識が出た。もうすぐだ。ヤズドを出てから既に6時間が経過している。

ボブさんがヤズドへ戻るのは眞夜中だなァ、ご苦労さまと言おうと思ったら、彼が「シーラーズだ」と一言つぶやいて、珍らしくニコッとした。「2時間でアラビア海」、また彼がポツンと言った。そうなのだ。北端に近いテヘランから、もう、イランの南端アラビア海の近くまで来ているのだ。【つづく】

■関連情報
石川信義(いしかわ・のぶよし):1930年、群馬県桐生市生まれ。海軍兵学校78期、旧制二高を経て、東京大学経済学部・医学部卒。学生時代は東京大学スキー山岳部所属。61年、第5次南極観測隊に参加。65年、東京大学カラコルム遠征隊の副隊長・登攀隊長。東京大学附属病院神経科、都立松沢病院勤務を経て、68年、群馬県太田市に三枚橋病院を創設し、日本初の完全開放の精神病院を実現した。以来、精神病院の自由・開放化、精神障害者の地域化(ノーマライゼーション)運動に尽力する。

著書に、『心病める人たち』岩波新書(1990年)、 href="http://books.livedoor.com/item/1754987">『鎮魂のカラコルム』岩波書店(2006年)、『開かれている病棟』(星和書店)など。

【むかしとんぼ】ムカシトンボ(昔蜻蛉)、学名Epiophlebia superstes。トンボ目・ムカシトンボ科のトンボ。体長約5センチ。春季、渓流で見られる。日本固有種。原始的なトンボの形をつたえ、生きている化石といわれる。日本以外では近縁種のヒマラヤムカシトンボ(Epiophlebia laidlawi)がヒマラヤ山脈周辺に分布するのみ。

石川信義ブログ『昔とんぼの旅日記』

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