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PJ: 池野 徹

広島、長崎を「灰」にしたのは誰だ。人殺しで「勲章」をもらったのは誰だ。
2009年08月18日 07:54 JST


"Dead or Alive" (制作/撮影:池野 徹) 

【PJニュース 2009年8月18日】時を経て、64年前の夏が来ている。1945年の8月、暑い夏の日だった。蝉がひとしきり鳴いていたのを覚えている。家の近くの小学校(国民学校)の校庭で遊んでいた。するとそこへ、母が現れ、家に帰りなさいと言った。なんでと聞くと「戦争が終わったのよ」と言う。

とたんに、思わず「バンザーイ」と叫んでしまったのを覚えている。戦争に勝ったのだと思ったのである。家に帰るとオヤジをはじめ、家族全員がラジオの前で何やら浮かぬ顔をしていた。するとそのラジオから天皇の玉音放送が流れて来たのだ。「堪へ難キヲ耐へ、忍ビ難キヲ忍ビ・・・」と何か異次元の遠い世界からの声のようであった。

当時、国民学校2年生だった。広島長崎へ強力爆弾が落とされたと聞かされ、東京大空襲があり、その原爆「ピカドン」で日本は戦争を悟らされたのだった。何より鮮明と言うか、納得いかなかったのは、日本が戦争に負けたという事だった。神国日本は負けるわけは無いと先生から、両親から、新聞ラジオから、絵本から見聞かされていたからである。

子供心に大きな裏切りであった。それまでの日本の戦争の成果などは、新聞やラジオで「大本営発表」として、日本がマリアナ諸島において勝利する陸海軍の報道がなされていた。「鬼畜米英、いざこいニミーツ、マッカーサー、出てくや地獄へ逆落とし」と歌われていた。

国民学校では毎朝、講堂で朝礼があり、教頭がうやうやしく教育勅語の巻物を広げ「朕思うに我が皇祖、、、御名御辞」と読み上げ、横見でもしようなら、引きずり出されてお仕置きをされていた。その後、東京の皇居方向へ姿勢を変えて最敬礼をするのである。友達がお弁当に天皇の写真が掲載されているのを知らずに広げたとたん教師に見つかり叱咤された。学校の運動場では、体操の教師が生徒を横一列に並べて往復ビンタを喰らわせていたのが、印象に残っている。その教師は、終戦と同時に学校から消えた事も許せなかった。

夜になると学校の運動場に、高等小学校以上中学生と、母親等の帝国婦人会を集めて、地元の軍人が竹槍の訓練をしていた。米俵に向かって、墜落した飛行機から逃亡した米兵を想定して、突き刺すのだ。うまくいかず、教官たる軍人が腰のサーベルを抜いて、「よく見ろ、こうやるんだ」と叫びサーベルを米俵に突き刺すと、ぐにゃりとサーベルがひん曲がったのである。後にして思った事はこれでは戦争に勝てないと思った事を覚えている。

新潟県に住んでいたが、うちの庭に、オヤジが防空壕をつくり、その中に、非常食品として米俵を必ず入れていた。空襲警報のサイレンが鳴ると防空壕に入る。怖いながらものぞき見ていた。東京方向へ爆撃に向かうB-29は日本海の新潟を抜けて、Uターンして東京へ向かうのだ。探照灯に照らされた機影を覚えている。日本の高射砲が砲撃するのだが届かない。悠々とB-29が飛んでいた。

近所の農家の跡取りの息子が赤紙をもらい応召された。皆で千人針をつくり、渡したのを不思議に思えたのだった。出征の日、おめでとうと赤飯を炊きだして食べた。本人は青白い顔をして、喜んでいる感じが一つもなかった。その後に、戦地からの訃報が入ったときの、年老いた両親の心ない顔は、出世時の笑顔とは対照的だった。

「空襲警報発令」のサイレンとスピーカーとともに、灯火管制をする。窓のカーテンを閉め、電球に黒い蛇腹の傘をかぶせ覆う。「空襲警報解除」で元に戻ると言う繰り返しであった。戦争末期は、供出と称して金目のものを全て各家庭から出させていた。仏壇のロウソク立てまで持って行かれた。サイパン、グアム、テニアン諸島で玉砕の報道がなされた。

町の米屋さんの店頭に、長い垂れ幕があり、手を合わせて子供を抱え海へ飛び込む親子が描かれ、「鬼畜米英撃ちてし止まむ」とスローガンがつけられていたのが眼にこびりついていた。バスは燃料が無く木炭車だった。その後仕事で撮影に、グアム、サイパン、ハワイと数多く行ったが、いつも、戦った人たちの霊魂を感じるのは、自分だけだろうか。

終戦を迎えたが、米軍の進駐軍がこの田舎の町を通ると言ううわさがあり、皆でより集まって、怯えていたのだ。進駐軍がやって来た時、恐いもの見たさに町の通りへ行くと、カーキ色のジープ、トラックに米兵がにこやかに呼びかけていた。彼らのランチボックスをくれたのを開けると、コンパクトに、コンビーフのカンズメとか、入っている。デザートのケーキについていたクリームのおいしかったこと。

はやい話、浮浪児が群がっておこぼれ頂戴している、情けない図であったろう。その時にもらったバニラのアイスクリームは、いまだに好物になっている。若い女性を見るや米兵たちは、彼女の買い物かごが溢れるほどの物資をあげていた。勝者と敗者の図式の印象は強烈だった。

学校では、カラー刷りの教科書だったのが、ガリ版刷りで、自分で切り貼りして使っていた。食糧難から来る病菌蔓延で、毎日、DDTの白い粉を頭からかぶせられ、シラミ退治にされていた。まずい肝油を飲まされ、家では、サツマイモ、コーリャン、すいとん、コッペパンが常用で、卵は貴重品だった。母と山の麓の農家へ母の着物を持参して、米と変えてもらう、冬の雪道で転びながら米を運んだのを覚えている。捕まえたイナゴの佃煮も忘れられない。

2001年9月11日、米国同時多発テロが起きる。その時、妻はハワイの親戚のいとこの所にいた。そして、現地の米国人に、これは1941年12月8日、日本がハワイ真珠湾を空襲した時以来だときつい意見を言われたそうだ。

64年経っても毎年、広島・長崎を始め戦没者追悼の式典が行われ、非核三原則を守り、戦争には参加しないと、誓いが立てられている。米国のオバマ大統領がかつての米国の核使用に対しての非人間性を表明したのを受けて、日本でも未だに米国依存の姿勢が変わらないが、あの、第二次世界大戦、大東亜戦争の主役だった日本は、敗戦からの経済発展した事を強調している。だが、真の戦争に対する反省、後悔、謝罪、つぐないを、迷惑をかけた世界の国々、東南アジア、日本の国民に対して行っているとは言えない。

広島長崎の被爆都市の市長も、アメリカを核開発国を攻めるより、日本国、日本国民自身に対して訴えて行かなくてはならないはずだ。日本が起こした戦争、それが、普通の罪亡き人たちを地獄に落とした事実が直ぐそこにあるのだ。嫌な事は、思い出したくもない、忘れる事が新しい事へ繋がると思いがちで、日本人の国民性もそこにあるが、もっと、戦争については、日本人に問われるべきだろう。

一人一人が戦争のバカさ加減を実感しなくては、知らん顔の日本人ばかりで、気がついた時に、また同じ戦争を仕掛ける正当論がまかり通る事になりかねない。日本国憲法も改正する必要有りと進む気配も濃厚だ。戦争中のメディアの戦争持ち上げ論、虚偽報道も、当時は正当性有りと報じていた訳であり、そのメディアに弱い日本人の体質は、未だに何も変わっていない。個人の考え方や自己主張出来る意見と、正義を見抜くセンスを持ってる人間個人でありたいと思う。

『イエスか、ノーか』

【了】

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PJ 記者