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PJ: 今藤 泰資

人はなぜ、小布施へ出かけ、小布施に定住するのか(下)
2009年04月09日 05:03 JST


「蔵部」のオーナー市村次夫さん(中)、小布施を代表する女性の一人関悦子さん(右)と記者(撮影:宮川博道さん) 

(上)からのつづき。小布施で活躍する「異国人」の多さは、他の自治体に比べて際立ってみえる。だが、もともと小布施在住の人たちは、これまでどのような役割を果たしてきたのだろうか。よく知られているのが、北信の寒村を浮かび上がらせた「市村一族」の存在である。北斎館の創設者市村郁夫さんの急逝後、まちづくりに励んだのが唐沢彦三さんであった。小布施町の吏員であった唐沢さんは、郁夫村長の命によって長野県庁に派遣され、そこで多くの知見を得たとされる。市村町長の後継者として数多くの業績を残した唐沢さんは、国土交通省の「観光カリスマ」認定第1号となった。ちなみにPJニュースでは、観光カリスマの一人、河合進さんを取材したことがある(関連記事)。

 魅力的な観光資源が乏しい地域での観光振興、疲弊した観光地の復活などを担った多様な人物が選ばれているのが、2002年度から2005年度にかけ実施された国土交通省の「観光カリスマ認定制度」である。まず手始めとして、愛知県足助、山形県寒河江、熊本県南小国、滋賀県長浜、沖縄県名護、三重県伊勢、兵庫県八千代、大分県湯布院、熊本県小国の「観光達人」の地域における展開が紹介されている。筆頭に挙げられたのが長野県小布施町であり、第1回の認定カリスマ10名の内、2名が同町内から選出されたのは異例だ。唐沢町長(当時)以外の1名は市村良三さん。現小布施町長である。良三さんとは、これも関さんのアテンドによって、「信濃くらし」というNPO法人が運営する宿舎でお目にかかり一夜の親交を深めた。茨城県のまちづくり関係者10名と、小布施と隣の中野市から出てこられた有志の方々10数名の交換会は、4年前のことである。参加者20数名の自己紹介から始まった交換会は、深夜にまで至ったが、会費は全員割り勘。ハム会社の社長夫妻が手土産にされた生ハムと、市村良三さんが持参された「スクエア・ワン」が、たいそう旨かった。長野県側の出席者は、全肩を組み、高らかに「信濃の国」を歌い上げたものだった。

   ◆

 今一人の市村さんは、枡一市村酒造場の社長市村次夫(いちむら・つぎお)氏である。良三さんとは同世代の従兄弟(いとこ)で、「台風娘・セーラ・マリ・カミングスを雇った社長さん」として知られる人物だ。実父市村郁夫さんの薫陶をえて育った経緯を「父親の無形遺産は実に多かったですよ、それは」とわたしに打ち明けてくれたのは、同氏が経営する「蔵部」の一角。紹介者はもちろん関悦子さんである。1948年、小布施に生まれた次夫さんは大学卒業後、信越化学工業に入社。父郁夫さんの急逝によって1980年に小布施に戻った。和菓子の小布施堂の代表取締役を兼務されているが、むしろわたしには「国土交通省・地域振興アドバイザー」としてかねてより尊敬していた方なのである。関悦子さんが夕食の場として選んだ「蔵部」で注文もそこそこに、「今藤さん、ここの社長に会ってゆく?」と唐突に切り出した。「蔵部」では上品な和食を、日本酒とともに楽しめ、かまど飯が旨いので有名な和食処。地域振興や中心市街地の活性化についての講演を依頼される度に、わたしが「日本最強のレストラン」として紹介し続けてきた場所。そこで当主にお目にかかれるなど望外のことだ。一も二もなく返事をしたら、関さん、「ねえ、社長さん、今どちらにおられるの?」と聞き、「あそう、蔵部に来られる。よかった、紹介したい人がいるのよ」といって電話を切った。「よかったね、今藤さん」といい微笑んだ。

 初対面の市村次夫社長は、温和で丁重な話をされる方であった。2002年2月、金沢経済同友会が開催した「金沢創造都市会議プレシンポジウム」のパネラーとして、次のように発言をされている。テーマは「都心・みやこごころ」である。「小布施の町は、戦後50年だけを見てみても、最初の30年の間、商店街が中心地でした。それが20年前には早くも衰微して、役場が庁舎を新しくしたそのすぐ前に、統合された農協関係の建物ができました。そうすると町の中心地は農協の本部であり、役場でありというような時代が数年続きます。と思う間もなく、北斎館という美術館を20年ほど前に作りました。そうなると今度は商店街でも行政の中心地でもなくて、北斎館が町の中心地になってくる、こんな変遷をたどります」。意識して改革に当たらねばマチは衰微する。都市再生には時間も手間もかかると伝えたかったのだろう。

 この夜、長野県人事委員長も兼務されるという次夫社長は、「権力は使わなければ増える」「信用の残高」「レストランにもIT化の促進が必要」などなど短い時間だったが、書き留められないほど多くの示唆にあふれた話を聞かせていただいた。セーラさんの「破壊力は想像を絶する」話題も愉快だったが、最も驚いたのは岩松院「鳳凰図」のエピソードだ。8年前、わたしが初めて訪れた岩松院では「寝て見る天井画」が当たり前であった。数年前から色彩のはく離を恐れた寺の方針によって、座って見上げる決まりに換わった。ところが50年以前の悪がき次夫少年らは、「ぞうきんを天井に投げ、金箔はがしを楽しんだ」と告白されたのだ。わたしたち聞き手は笑い驚いた。逸脱した昔話を遠来の客に提供しようとする心根に、小布施人の面目を見たような気がした。

   ◆

 ネイティブ小布施人の一人、小山洋史(こやま・ひろふみ」さんとは、「ア・ラ小布施」で会った。小布施町立栗ガ丘小学校の入学式の前日である。文教委員の関悦子町議は「忙しいのよ、明日は特別にね」と愚痴をこぼしながら、「いいところに来たね、小山さん」と言いながらわたしたちに向かって「ウチの副社長さんなのよ」と紹介した。220年の歴史を誇る穀平味噌醸造場9代目の当主は、真四角の満面に笑顔を充たしながら、ジャズ喫茶「バド」の話をはじめた。「コンビ二が1軒しかない田舎でジャズが聞ける?」とわたしはいぶかったが、伝統的家業とジャズ喫茶を両立させる魅力が小布施にはあるらしいい。「そんなに来られているのなら、オブセッションに出ましたか」と聞き返され、わたしは即座に「4月は明日だからムリですが、5月にはぜひ」と応じた。嫌みなく人を誘うのに長けてるのも小布施人の特徴。この日の土産に穀平醸造のお味噌が加わったのは言うまでもない。

 マチは狭いが懐が深い小布施。ここでも長野県の定番は「1番だけでは済まないことで有名」で、「県民のほとんどが歌える」と言われる県歌「信濃の国」であった。明治32年浅井洌により作詞、明治33年に北村季晴により作曲され、師範学校の行事の時に歌われ、その学生が、教師として県下に散り、「信濃の国」を各小学校で教え、親から子へ子から孫へという形で歌い継がれてきたこの歌のエピソードにも、小布施の人々の真髄が見て取れる。「♪信濃の国は十州に/境連ねる国にして/そびゆる山はいや高く/流るる川はいや遠し……♪」。

 疲れ果てた人には癒やしを、行き詰まった芸術家には発奮を与える町、小布施。町内にある日本聖公会新生礼拝堂で受け取ったリーフレットに、「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう」とあった。自らの郷里を愛し、異土に郷里を持つものでさえ迎え入れる小布施のホスピタリティーこそ、人が小布施へ出掛け、小布施に定住する原点なのだろう。小布施を去る日、岩松院の池には水芭蕉が咲いていた。次回は連休さなかの小布施。千曲川の菜の花も、果樹園の桃の花も真っ盛りの季節になる。花も実もある人生を謳歌するにも楽しい小布施、今から楽しみで仕方がない。【了】

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