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PJ: 今藤 泰資

人はなぜ、小布施へ出かけ、小布施に定住するのか(上)
2009年04月08日 05:02 JST


小布施を代表する外国人の一人、黄色の作業着のセーラ・マリ・カミングスさん。赤い野球帽からこぼれるブロンドが朝日にあたってキラキラ輝いていた。後ろに見える青い帽子の男性はセーラさんの仕事仲間(撮影:今藤泰資) 

長野県上高井郡小布施町。面積19平方キロ余、人口わずかに1万2000人。長野県下で最も小さな町である。長野電鉄の小布施駅を中心にして半径2キロメートル以内に、すべての集落が配置され、住むにも遊ぶにも格好のロケーションだが、高層の建造物は見当たらない。北信と総称されるこの地方は、多雪地帯の上、酸性の土壌は米作には適さず、古くから果樹栽培に依存しきた。こんな町に年間120万人余の観光客が訪れると聞けば、たいていの人は驚く。キャッチフレーズは、「北斎と花と栗の町」。観光客の多くはリピーターで、実はわたしもその一人である。

 過去8年ほどの間に、わたしは小布施を20数回訪れた。多くは一人旅であったが、それ以外のほとんどは、「小布施に行きたい、小布施を見たい」という方々の案内役だった。ボランティアとして同じマチの各所を、幾度となく案内するにはいくばくかの抵抗があった。だが、その都度小布施は新しい発見をさせてくれた。今春、茨城県土浦市内の会社経営者父子、同じく桜川市内の事業後継者を伴っての旅は、奇(く)しくも、20代、30代、40代と世代の異なる感想を楽しむ機会となった。彼らにもわたしにも、目からうろこが落ちる心地がしたのも、一重に関悦子さんのおかげである。

 宿泊先は、「ア・ラ・小布施」にした。奇妙な名前のこの株式会社、軽食喫茶、観光や視察のガイドセンターなどの運営から、四季折々に開催されるコンサートや、演劇、映画祭などの企画などのほか、農業振興と環境保全から、地域通貨研究の学習拠点になるなど多彩な活動を続ける第3セクターである。ひところ、ネコも杓子(しゃくし)も第3セクターに依拠した地方自治体にあって、おそらく唯一健全経営を続けるこの会社。創生時からの企画運営者が今回もお世話になった関さんである。

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 数週間前のこと。いつものように、「そう、また来てくれるのね。待ってるよ。4名?ウチに泊まってね!」元気な返事が電話口に響いた。何度もPJニュースで紹介してきた関さんは、茨城県行方市(玉造)の出身。最近、小布施の町会議員選挙に出馬、上位で当選した新人議員さんだ。「わたしね、議員になんかになる気なんかなかったのよ。でも推薦する人がいて」。出馬したところ、14名の議員中2番で「当選しちゃった」。当選の理由は、小布施に住み着き、新生病院の総務課長として「人脈を広げてきたことが主因」ばかりではなさそうだ。ここにも「ア・ラ・小布施」の存在を感じずにはおられない。「ア・ラ」とは「〜風に」とか「〜流で」といった意味で、一般的には「小布施の風」または「小布施人」と解釈されている。

 現代の小布施をかくも有名にしたのは江戸時代の天才画家・葛飾北斎である。もちろん180年以上も前、北斎がそのことを目論んだわけではない。天保年間、江戸から240キロもの道のりを、徒歩で行き来した北斎の体力に驚かされる。当時、江戸と信濃を結ぶ主要街道は中山道であった。途中には、交通の難所碓氷峠もある。小布施への旅は、さぞ難渋したことであろう。豪商高井鴻山(たかい・こうざん)の厚遇もあったにせよ、昔から小布施は「異国の人をも迎え入れる気風」があったに相違ない。だからこそ、晩年の大半を小布施で過ごした北斎は、多数の作品をこの寒村に残した。とりわけ岩松院の天井画「八方睨みの鳳凰図」は力作である。北斎が残した多数の作品を、地域遺産をマチの活性化に役立てようと試みたのが、故市村郁夫さんである。県会議員から町長に転じた郁夫さんは、鴻山の血筋の人物である。1976年の北斎館の開館は、メディアに取り上げられ、好評を得たが、あまりにも多い北斎作品は、「贋作を集めた」と揶揄(やゆ)されるほどであった。

 現在、株式会社ア・ラ・小布施の社長は医師の内坂徹さんである。弱冠37歳で新生病院の院長として小布施に赴任した内坂さんは、13年務めた後、「もっと住民と接したい」と栗ノ木診療所を立ち上げた。やはり「異国の人」といっていいだろう。関悦子さんは、明治大学の学生時代、「たまたま交際した相手が小布施出身だった」といい、「ヨメに来たころ、夜になると人っ子一人も通らない北信の寒村」に受け入れられ、今では小布施を代表する女性の一人に数えられている。どちらを向いても、他国や他県出身者が活躍しマチを有名にしたのだ。中でももっとも有名な外国人は、「台風娘」ことセーラ・マリ・カミングスさんである。この日、黄色の作業着のセーラ・マリ・カミングスさんにまた出会った。赤い野球帽からこぼれるブロンドが、朝日にあたってキラキラ輝いてまぶしかった。

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 ペンシルベニア州立大学を卒業、関西外国語大学で日本語を習ったブロンド美人の話題は、「セーラが町にやってきた」(清野由美著/プレジデント社)や、「小布施ッション:長野県小布施町から洗練された発信力」(日経BP企画)などでこと細かに紹介されている。長野五輪の終了直後、クルマで30分以上もかかる小布施の枡一市村酒造場に自転車でやってきたエピソードに尽きるだろう。その馬力は今でも一向に衰える気配はない。深い会話を交わしたことこそないが、セーラさんには小布施で4、5回偶然の出会いがあり、今回もまた偶然に出会ったのだ。早朝の小布施の中心部大日通りを職人風の男性と話しながら歩くセーラさんに、わたしは「昨夜、蔵部で、お宅の市村社長とご一緒したんですよ」と呼びかけた。「あ、それはご苦労さまでした。写真ですか? こんな格好でよかったら」と気さくに注文に応じていただいた。「逆光になるから、写真はこの方向がいいんじゃぁ」と親切に話しかけたのは、仕事を始めようとする当の職人さんである。小さな光景にも小布施らしさが表現されて、わたしは満足であった。

 セーラさんの提唱で始まった「小布施ッション;Obusession」は、毎月ゾロメの日に開催されるイベントである。小布施が大好きだという人たちが集まり、各界の先駆的な仕事をしている講師を招き、知的で有効な情報交換を行う。その後、おしゃれで気楽に小布施料理と地などを楽しみながら、愉快な出会いを重ねる会のことである。「Obsession」には「u」が入らないが、小布施で使う「Obusession」には「u」が入る。この場合「u」=「you」、つまり「みなさん、あなたがた」が必要という意味も含むそうだ。「小布施ッション」のネーミングは「オヤジギャグ」という批判に対し、セーラさんは、「いや、日本には古くから語呂合わせの習慣があった」と反論する。「めでたい時はタイでしょ?」「今年もコマメにだからゴマメでしょ?」というわけだ。枡一酒造場の売れ筋商品で純米酒の「スクウェア・ワン」も、“枡”と“一”を合成したことで有名だ。

 1932年、カナダ聖公会の医療伝道師R・K・スタート博士が初代所長となってから76年になる新生病院。現在では、内科、循環器科、小児科、外科、整形外科、形成外科、皮膚科、泌尿器科、眼科、耳鼻咽喉科、麻酔科、歯科、歯科口腔外科などを有する総合病院で、地域医療の拠点となっている。地方、都会の区別なく、医療面での社会基盤整備が進んでいるのも、当時忌み嫌われた結核療養所の「サナトリューム」を、小布施が受け入れたからである。今では病院付属の小さなチャーチは観光名所の一つに挙げられ、ここに勤務した遠来の人々が町内で活躍していることに注目したい。セーラさんやスタート博士以外にも、最近小布施に定住した映像作家の花井裕一郎さんや、JR九州の車両デザイナーとして著名な水戸岡鋭治さん、香港在住の建築家ジョン・モホードさんなどがこのマチを元気にしてきた。2005年には、東京理科大学の「小布施町づくり研究所」が開所。理工学部建築科の川向正人教授を中心に、学生と研究者らが町役場の一角で施策の遂行に当たるまでに至ったというが──。

 では、故市村郁夫さん以外の小布施生まれの人たちは、どのような役割を果たして来たのであろうか。【つづく】

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