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PJ: 今藤 泰資

山陰米子旅情=私道橋、早咲き桜に人の機微
2009年03月23日 08:22 JST


商業のマチ米子を流れる旧加茂川。河岸には大きな商家の痕跡が「私道橋」として残されている(3月20日、撮影:今藤泰資) 

所用があって松江と米子周辺を歩いた。当地における水際線の利用と活用の調査を主目的とする旅である。在住する茨城県は、河川や湖沼、海岸線に恵まれた地域なのに、水の利用が不得手な県なのである。水と深い縁を持つ山陰のこのあたりだ、季節は春といってもまだ冬だろう。そう思った冬支度のわたしたちを出迎えたのは意外にもサクラの便りであった。

 「彼岸にサクラがねえ……」と驚くのは、米子市観光協会のボランティアガイド山枡敏雄(やまます・としお:57)さん。スマートな長身に黄色のジャンパーがよく似合うこの方、マチづくりについて「口を出すわ、カネは出さんわが役人の悪癖でしてなぁ」と軽妙洒脱な口調で遠来客をもてなす。ところが山枡さん、実は現職の米子市役所の課長さんだと聞いて驚いた。いくら暖冬とはいえ、「サクラが咲き、大山の雪は少ないこんな彼岸は珍しい」そうだが、わたしには役人ボランティアの方が珍しかった。

 山陰のほぼ中央に位置する米子市。古くは戦国末期に吉川広家の手によって米子城が構築され、伯耆国十八万石の城下町として繁栄をみた商業のマチである。歴代藩主の居城であった鳥取城を凌駕(りょうが)する支城(本城を補助する役割を持つ出城や砦)は、廃藩置県後の混乱によって、今では往時の威容をしのばせる風情はない。わずかに標高90メートルの湊山に巨大な城壁のみが残されているに過ぎない。その一方、大火や戦災に遭わなかった城下町には、古い家並みや白壁の土蔵などが古色然と残され、「間口税」を逃れるため、間口はせいぜい18メートル程度なのに、奥行きは52メートルもある古民家が現在も利用され、一部ではレストランなどに再生されている。

 中でもわたしたちの目を引いたのが、旧加茂川に多数構築された数多い「私道橋」の存在であった。内湾である中海と日本海に面した美保湾に挟まれた土地・米子は、山陰道、出雲街道、境港往還などの街道の結節点として、海産物、木綿、鉄、木材などの集積地、中継地として繁栄してきた。中海に面した湊には米、鉄、綿などを積載した廻船(かいせん)が出入りし、城下町の外堀を兼ねた加茂川沿いには、後藤家や鹿島家などの商家の豪邸と土蔵が建ち並んでいた。出るも入るも船によって成立してきた町並みは、近代に入って以降、道路を用いるようになったことが「私道橋」として残る理由である。

 「市でももちろん撤去を申し入れてきたんですが、占有権が担保されており、カネがないからなどで拒否されている」と山枡さんは解説するが、世にも稀なる珍風景は異国の旅人の旅情をそそる。旧加茂川にかかる京橋の近くの灘町や竪町などの町屋には、問屋以外にも船宿や料理屋、見番(芸子置場)などが軒を並べていたというから、さぞ壮観であったことだろう。

 「中ん橋」という奇妙な名前は、この橋の両側に魚市場「魚の棚」があったことに由来するが、その先に岡本一銭屋という駄菓子店がある。子どもの小遣い1銭が店名となったが、2階建てにしか見えないこの店、実は絢爛豪華な3階建ての住宅を兼ねた旧屋であった。また近くには9つの寺が並ぶ寺町通りがある。戦国時代前後になんと元寇の乱の教訓によって備移築されて寺院群で、米子のいわば城壁の役割を担ったとされている。「隙間なしに立つ寺は、弘前、金沢と米子だけ」と山枡さんの説明にも力が入る。

 日程の関係から米子にはわずか1泊しかできなかったが、何より一同を感激させたのは、このマチの心温かさであった。ガイドの山枡さん、ホテルの老フロントマン、岡本一銭屋のおかみさん、一杯飲み屋のご主人、レンタカー年配の担当者──。名所旧跡を活かすも殺すもそこに住む人の心の機微。水のマチ米子には、水臭ささのないところがいい。そう思わせた山陰米子は、まさに冬と春を分ける日となった。【了】

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