SakuraFinancialNews

PJ: 今藤 泰資

師走のソウル(3)閔妃一族の日本思慕と日韓経済への貢献
2008年12月27日 08:20 JST


閔妃ゆかりの徳寿宮(トクスグン)の王宮守護将。(撮影:今藤泰資) 

(2)からのつづき。ソウルの地下鉄5号線の終点に近いコドック(高徳)駅。高級住宅地として発展してきたこの地に「七輪」という日本料理店がある。シェフは乃木昴(のぎあきら)さんという日本人で、この記事で紹介したわたしの友人である。ナム君と訪れたこの夜の「七輪」は、またしも満席であったが、乃木さんによれば、「いや昨夜の方がもっと忙しかった」といいい、さらに「韓国経済が疲弊しているのはうわべだけ」ということになる。数ヶ月前、その乃木さんから「次回には、ぜひ紹介したい韓国人がいる。来る前に連絡して」とのメールがきた。「高齢の知日家で、上品で正確な日本語を話す歴史の生き証人」と聞けば、会いたくなるのは当然だ。

 混雑する店の片隅で、和風の「しゃぶしゃぶ」と朝鮮風の「パンチャン」(キムチや小魚の煮付けなど代表的な副菜)を前にしながら、きちょうめんな乃木さんは「今藤さんが来るので、例の件はメモにしておいた」と、こと細かに書かれたA4の便せん3枚をわたしに手渡した。なんせ夕方の多忙な時間帯、話は切れ切れだったがことの意外さにわたしは驚いた。メモのタイトルは「閔妃(ミンビ)の孫との出会い」である。閔妃こと閔升鎬(ミン・スンホ)は、日韓(日朝)歴史上有名な王妃暗殺事件の主人公である。乙未事変(いつびじへん)とも呼ばれ、明治28年(1895)10月、朝鮮帝国王妃の閔妃が、時の朝鮮国駐箚特命全権公使・三浦梧楼ら日本人の手によって殺害され、明治43年(1910)の朝鮮併合に結びついた大事件である。

 事の次第はさまざまに表現され、異聞や伝聞が多く実態は解明されていない。一部に韓国、朝鮮人にとっては極めて屈辱的な表現があり、ここで事実関係をわたしが証明することは到底不可能である。ただ、「乙未」とは干支の32番目、きのと・ひつじの年のことで、韓国では「ウルミ」と発音することと、着任早々の三浦公使が、親露政策を重視する時の権力者閔妃を暗殺し、その後の朝鮮併合を促進させたのは史実としておきたい。欧米やロシアの干渉の中、広島での軍法会議の結果、主犯の三浦梧楼は無罪放免になった。三浦は元陸軍中将である。その後、枢密顧問官、学習院院長から宮中顧問官などの要職を歴任した。これによって、当時のわが国の対応が理解されるところであり、韓国朝鮮人からは大犯罪者と断定されても仕方がなかろう。

 乃木さんのメモにはこうあった。「以前にマサン(馬山)で知り合った韓国青年ミン君が、この七輪に祖母と母上を連れて食事に来られた。あいさつに出向くと上品で流ちょうな日本語で話をされる。都内の白金台にマンションを所有していたが、最近はほとんどソウルのイテウォン(梨泰院)で暮しているとの話であったが、イテウォンとコドックは全くの東西。『随分遠方までお越し頂き』とお礼を申し上げると、『あなたはもっと遠い日本からいらしているでしょう』と笑みを返され、以来どちらからともなく連絡を取り合い、食事をし、杯を酌み交わす仲になった」という。祖母のミン夫人が語る昔話には、「わたしの祖父は閔妃の兄。抗日運動の指導者であったイ・スマン(李承晩)の上海やアメリカへの亡命を支援し、大韓民国建国の礎を築いた人」などとし、とりわけ「生家の模様を詳しく話された」という。

 さらに乃木さんは、「ミン夫人は、1930年ソウル中心部の昌徳宮(チャンドックン)の正面にあった家で生まれた。現在その地は、『昌徳宮の建造物群』として、ユネスコ世界遺産に指定されている李氏朝鮮時代の宮殿であり、約3000坪の敷地内には屋形船が浮かぶほどの池が配置され、20棟ほどの建物があった。その池畔に石碑があって、そこには亀甲船で秀吉軍を撃破した武将・イ・スイシン(李舜臣)が、ここで亀甲船の模型を浮かべて思案したと記されていた」などとあった。わたしが最初に注目させられ一点は、閔妃の夫であった高宗皇帝の複数の妾の内、2人が日本人であったという事実だ。今も続くミン夫人の「日本国と日本人に対する憧憬(しょうけい)のゆえんではないか」と乃木さんは分析するが、わたしは逆に、日本諜報機関の陰謀があったのではないかと見ている。2人の妾が、間諜(スパイ)であった痕跡の確証はないが、対露、対清諜報戦のすざまじさは歴史が多くを語っている。

 今一つの注目点は、「戦後初めて訪韓した日本の財界人13名の宿舎が、当時不整備であったホテルに換えて、ミン夫人の生家に2週間泊まった」ということだ。乃木メモには財界人の氏名はつまびらかにされていないが、帰国後わたしの調べた範囲内では、1962年、団長を植村甲牛郎とする財界人ミッションで、安藤豊禄(小野田セメント)、藤井丙午(八幡製鉄副社長)、関義長(三菱電機社長)、加藤五一(三井造船社長)、安西正夫(昭和電工社長)らであったと思われる。日韓経済協会のトップクラスで構成された「植村使節団」の中でも、安藤豊禄は「韓国、わが心の故里」の著書もある人物で、また植村団長は 1968年に経団連会長に就任し、組織を集団指導体制に移行させ、効率的に内外の経済問題に対処したとして知られている。

 つまり戦後の復興間もないこの時期、わが国の財界人は、最も近い韓国との共存共栄を図ったことになり、そこには意外にも「最大の抗日主義者」と目されていた閔一族の恩恵にあずかったという事実だ。同時にまたわたしは、ミン夫人らの懸命な努力が奏効した結果、朝鮮戦争(韓国戦争)で疲弊した韓国の鉄鋼、セメント、電機、造船など主力産業基盤整備にわが国が果たした役割もまた大きかったと信じたい。

 振り返れば、朝鮮のラストエンペラー高宗皇帝は、反日気運の中で国権回復を祈り、閔妃の子純宗(スン・ジョン)に譲位して退位した後、徳寿宮(トクスグン)で晩年を送り、1919(大正8)年1月21日、またもや日本人に毒殺されたと伝えられている。スン・ジョンの異母弟が、李恨(イ・ウン)である。わたしはわずか3泊のソウル滞在中、奇しくも日韓両国を影で支えた2人の女性の後ろ姿を垣間見ることになった。日本人女性は、「日本髪の娘」で想起される李恨夫人の方子(まさこ・旧姓梨本方子)であり、韓国人女性は閔妃の孫・ミン夫人である。何時の世も、「いくさを起こすのは男、いくさを消すのは女」であるように思えてならない。

 日韓のはざ間で揺れ動いたミン夫人と李方子夫人…わたしの拙い文章では気高い2人のことはこの程度にしか記録できないのが残念である。「キモノ姿に見とれ、事件の話題には興奮する」というミン夫人。次回の訪韓に際しては、直接お話をお聞きしたいと願っている。

 乃木さんの店「七輪」は、ソウル地下鉄5号線高徳駅4番出徒歩5分・カンドン区ミョンイル洞48−17・ハンファオーべリスクビル2階にある。(?:02−3427−8592)それでなくとも多忙な方だが、「60歳近いオヤジが、下手な韓国語をあやつって、ソウルの片隅で日本料理店をやっている」という乃木さん。日本人でも韓国人でもいい、若者と酒(菊正宗の大吟醸)と話が好きな乃木さんにぜひ会ってもらいたいものだ。日韓関係とは、教科書、竹島、靖国問題ばかりではない。信頼や愛情、積み重なった叡智が両国の歴史の中に息づいているのだ。それはたぶん、乃木さんも同感のはずである。【了】

■関連情報
PJニュース.net



関連記事:
タグ:
pagetop

PJ 記者