PJ: 穂高 健一
浅草歴史・文学散策(3)=浅草・弁天山
2012年02月09日 07:42 JST
宝蔵門の東方・弁天山は、これが「山なの?」と首を傾げたくなる。だが、文学碑の宝庫である。(撮影=穂高健一、1月10日、東京・浅草) 
【PJニュース 2012年2月9日】浅草神社(あさくさじんじゃ)は、一般に三社様(さんじゃさま)と呼ばれて親しまれている。5月17日の例大祭は三社祭と呼ばれ、最大に賑わう。
社殿は徳川将軍家光の寄進で、浅草寺(せんそうじ)本堂の東側に完成させたものである。明治時代の神仏分離でから切り離された。明治6年に現在の浅草神社に改称している。
宝蔵門の東方にある、小さな丘が弁天山である。石段を登ると、朱塗りの弁天堂と、向かい合って鐘楼が建つ。徳川将軍綱吉の命で、鐘楼の梵鐘が作られた。それからは時を知らせる「時の鐘」としての役目が、大正末期まで続いてきた。
松尾芭蕉が『花の雲鐘は上野か浅草か』と詠んだことで、名高い。(現存の鐘は改鋳されており、それ以前の鐘らしい)。芭蕉の「観音の甍(いらか)見やりつ花の雲」という句碑もある。
「らっぱ節」で社会を痛烈に批判した、演歌師の添田唖蝉坊(そえだ あぜんぼう)本名・添田平吉の碑も弁天山にある。『つきいだす鐘は上野か浅草か、往き来し絶えて月にふけゆく吾妻橋、誰を待つやら恨むやら、身をば欄干に投げ島田、チョイトネ』(原文通り)が刻まれている。
「扇舞」の供養塚、都々逸塚(どどいつづか)の碑、鳩塚、普閑「かかるとはおもひさだめし……」の歌が刻まれている。それら碑には説明が記されている。じっくり石碑を観れば、江戸から昭和まで浅草の一端をかいま見ることができる。【つづく】
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記者HP:穂高健一ワールド
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