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PJ: 穂高 健一

秋の旅路、瀬戸内沿岸の歴史を訪ねて(7)=木江港・広島県
2011年11月04日 08:11 JST


明治から昭和半ばまで、優れた造船技術で立てられた木造三階建て、他に類を見ない五階建てが木江港に残っている。(撮影:穂高健一、5月2日、広島県・木江港) 

【PJニュース 2011年11月4日】本州・四国のいずれかと橋で結ばれると、離島ではなくなる。「しまなみ海道」が完成すると、大崎上島(広島県)が瀬戸内で、一番大きな離島になった。

奈良時代からの航海に使う帆船は風力・風向に強い影響を受けた。とりわけ瀬戸内の速い潮流に対応できなかった。干潮・満潮の変わり目は、潮の流れがいつとき止まる。それを見て、船頭は出帆する、「風待ち、潮待ち」の良港が発達してきた。

幕末になると、欧米から購入した蒸気船が、瀬戸内を航行する時代になった。明治時代に入ると、日本人みずから動力船を作れる造船技術が高まった。機帆船時代の到来である。「風待ち、潮待ち」の港に頼らず、九州と関西への最短距離の航路が優先された。

双方の中間距離にあり、船舶が食料品、水、燃料の補給ができる、なおかつ発達した造船業があり、船の修理ができる、船員たちが一晩を過ごす遊郭がある港が栄えた。この三拍子が最もそろっていたのが、大崎上島の木江港(きのえこう)である。

昭和初期には瀬戸内随一の港町として栄えた。造船業がさらなる発展をした。各地から集まった船大工たちが造船所で腕前を競った。

船員は船上で金が使えない。木江港に上陸すれば、札束を切って湯水のごとく使う。天満遊郭街、宇浜遊郭街という、2か所の繁華街が瀬戸内最大級となった。寄港する機帆船が多くて湾内に入りきらず、沖合にまで停泊する。ゴールドラッシュのように、港に金が落ちた。倍々ゲームで加速度的に、港は栄えた。
町全体が豊かで、建造物は金に糸目をつけず豪華、防波堤までも御影石造りという、独自の木江文化が創られた。

1958(昭和33)年の売春防止法が施行されると、遊郭が機能を失った。内航海運の船舶が大型化し、九州と大阪との中間の寄港地も必要でなくなってきた。木江港は寂れた。
観光的にも知られざる港町となった。現在では町の再開発もなく、三階建て、五階建ての元遊郭が街全体で残っている。

「木造三階建ての集積度は、きっと日本一ですよ。なんで重伝建築物(重要伝統的建造物群保存地区)に指定されていないのか、ふしぎです。天満地区の三階楼の町などはすごい。約150メートルの狭い範囲内で、十数棟も現存しているなんて、いまの時代では奇跡です」(斉藤潤さん・島嶼研究者)

斉藤さんは全国の重伝建築物の大半を観てきたという。埼玉の川越は蔵造りの商家の町として、千葉の佐原は水運を利用した商家が残ることで有名である。
「どれも部分的なもの。木江は港全体ですから、それらと比べても見劣りしない。腕のよい船大工が高賃金に誘われてきて、造船のみならず、町の建造物にも、優秀な木工技術が生かされています。三階建て、五階建ての、地震にもびくともしいな頑丈な楼閣を作った。一般民家の欄間や床の間、家具も、お金をいとわず、大工が腕によりをかけた、豪華な物が造られています。ゼッタイに残すべきです」

木江港の人たちは「遊郭は負の財産」だとして、重伝建築物の申請に積極的ではない。【つづく】

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記者HP:穂高健一ワールド

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