PJ: 穂高 健一
坂本龍馬はなぜブームなのか (3)
2010年05月30日 08:58 JST
新谷道太郎 
【PJニュース 2010年5月28日】(2)。「長州は倒幕に役立つ藩ではなかったんですよ。長州藩は京の都を追われているし、第二次長州征伐で戦いに疲れている。重臣も、藩士も、徳川倒幕よりも京都の復権を狙っていた。それが第一だったんです。薩摩藩と芸州藩が倒幕に強く動いたんですよ」
山口県の著名な幕末研究者から、そんな話が飛びだした。長州の膝元から、薩長同盟による倒幕の否定が出て、びっくりした。
冷静に考えれば考えるほど、司馬がいうほど、長州藩には倒幕意欲がなかったはずだ、と納得できた。芸州藩は鳥羽伏見の戦いで、最新の大砲を持ち込んで戦っている。司馬は薩芸同盟の資料が見当たらず、そこから故意に目を逸らし、芸州を外している、と思った。
幕末ともなると、日本は開港し、英米仏などが武器を売りにやってきた。(アメリカ南北戦争後の余った武器などが流れ込んだ)。武器弾薬を買う場合は、幕府公式ルートの長崎だった。それでは幕府に内情が筒抜けになってしまう。
薩芸は広島県・大崎下島の御手洗港で、密かに外国から最新の武器をせっせと買っていたのだ。ある種の密貿易だった。
龍馬の主導で、慶応3年に四藩軍事同盟が大崎下島・御手洗で結ばれた。芸州側は池田徳太郎が大きく関わっていた。それら強力な最新兵器(ライフル銃)が鳥羽伏見の戦いに持ち込まれた。幕府軍(火縄銃的な武器)との大きな戦力の差になっていた。幕府側は大軍でありながら、敗退した。
新谷道太郎が昭和11年発行の述書『維新志士 新谷翁の話』で、四藩軍事同盟や密貿易を明らかにしたのだ。当時は新谷道太郎ブームになりかけていた。だが、翌12年に日本は中国へ侵攻し、国民の目は幕末の戦いよりも、中国との戦いに向けられた。さらには第二次大戦へとつづく。新谷の語る四藩軍事同盟が消えてしまったのだ。
平成22年に、坂本龍馬ブームになって、新谷道太郎が世に出てきた。同書の「御手洗の密議」の項目を抜粋してみたい。
慶応3年10月29日、道太郎は(広島県)糸崎の精義隊で、剣道師範をつとめていた。「11月に入ると、薩長両藩から、主命によって、数名のものが君の宅まで出張することになっている。すぐ御手洗へ帰ってもらいたい」と池田徳太郎から、連絡が入り、島に帰り待っていた。
同年11月3日12時ころ、まず池田徳太郎、加藤嘉一、高橋大義、船越洋之助、星野文平の5人がやってきた。
薩州から大久保一蔵(利通)、大山格之助、山田市之丞の3人。
長州からは桂準一郎、大村益次郎、山縣狂介(有朋)の3人。
土州からは坂本龍馬、後藤象二郎がきた。
この日は会合して酒を飲み、夜を更して、何ごともなく寝についた。
『4日早朝から5日、6日にかけて真剣の協議となった。もう酒は飲まない。差し迫った問題は京都御所に固めている、2000の兵は見殺しにしてならぬ。彼らはいま食料にも欠乏し、袋のねずみ同様である。
これを救う方法は無いか。幸い、こちら(四藩)には徳川軍がまだ夢にも知らない、騎兵、歩兵、砲兵の三隊がある。銃砲弾薬、その他の舶来の戦具がある。この洋式の兵隊と、四藩から兵糧米を各100石ずつ運搬し、京都へ送ることにしよう』
そう決めた上で、徳川軍の強力な軍況の分析と、倒幕の戦術に入った。
勝てばよいが、負けたときはどうなる、という話題が持ち上がった。
「一番年若い、だれか一人が生き残ることにして、われら忠義の志を後世に伝えねばならぬ」
龍馬が皆の年齢を確認した。そのうえで、22歳の道太郎を指名してから、
「(伝承)責任は君にあるぞ。ただ急いで口外するな。口外したなら、君はすぐ殺されるぞ。どのようなことがあろうとも、60年は黙っておれ」
「なぜ60年間も待たねばならぬ」
新谷は龍馬に問うた。
「これから60年もすれば、皆死んでしまう。その後で言え。いかに佐幕の者でも、その子孫が怒りを継いで、君を殺しには出て来まい」と注意してくれた。ここに、四藩軍事連合が成立した。
翌7日に御手洗を出発した龍馬だったが、その彼が真っ先に京都で殺された。
四藩軍事連合から9日後の龍馬暗殺だったことから、密議に加わった志士たちは、同様の暗殺を怖れたのだろう。それぞれが明治政府の重鎮になっても、全員の約束どおり、軍事決起の実態と参列者の名は明かしていない。
新谷は龍馬との約束どおり60年間にわたり沈黙を守ってから、これらの事を明らかにしたのだ。
龍馬がなぜ新谷の実家を密会の場所としたのか。御手洗港から1.5キロほど離れた、「大長」という集落にあった。港の人の出入りより、やや外れた閑散とした場所だ。人目につきにくい。本徳寺の住職がすむ家屋となると、寺社奉行の管轄で、町方同心の取締りが入らない、ある種の治外法権だ。
加えて新谷は勝海舟、山岡鉄舟の下にいた旧知の志士仲間で、裏切りはない。星野文平も御手洗出身で、島の状況に明るい。京都や下関に比べても、安全な場所であった。
龍馬は危機管理が強い人物だった。手紙はすべて処分している。龍馬にすれば、御手洗の新谷宅は重大な密議をおこなう場所だ。倒幕を目指す各藩から志士を集めるところだ。そんな重要な場所を手紙に書くはずが無い。いつ幕側の手に奪われるかもしれないのだから。だから、龍馬の史料として残っていなかった。
司馬がもし新谷道太郎述書『維新志士 新谷翁の話』を執筆まえに見つけて、四藩軍事同盟を知っていたならば、「竜馬が行く」のストーリーは違っていたはずだ。
桂小五郎が唯ひとり書き残した、薩長和睦の口約束の話し合いをもって倒幕という、強引な解釈は生まれなかっただろう。
司馬は「龍馬」でなく、「竜馬」としてフィクション小説とした。司馬の逃げは、四藩が主力となった鳥羽伏見の戦いの原点・密約がどこでおこなわれたのか、わからなかったからだろう。つまり、小説家・司馬も、龍馬の御手洗での極秘行動の危機管理を見抜けなかったのだ。
坂本龍馬ブームのなかで、「倒幕同盟に芸州」「竜馬 四藩同盟を狙う」「薩長だけじゃない」と大きく取り上げる新聞社が出てきた。東京新聞・こちら特報部(3月21日)では「歴史を覆す新事実になるか」と記す。【了】
■関連情報
隔月誌「島へ。」
記者HP:穂高健一ワールド
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