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PJ: 穂高 健一

坂本龍馬はなぜブームなのか(2)
2010年05月29日 08:28 JST


薩長同盟は単なる口約束だった。その翌日、龍馬は長府藩の三好慎蔵とともに、寺田屋事件に巻き込まれた。 

【PJニュース 2010年5月29日】(1)からのつづき。広島県・呉市の御手洗在住の郷土史家・下鍛冶尚眞さんに当たったところ、幕末志士として、御手洗出身者の新谷道太郎(にいやみちたろう)といういう人物が浮上してきた。新谷は住職の長男だが、寺の跡取りを嫌い、島を飛び出して江戸に出た。勝海舟の門下に入り、剣術は8段で海舟の供侍までになった。龍馬とも親しく、維新活動をともにしていたという事実をつかんだ。

龍馬を書く以上は、まず龍馬を知ることだ。数多くの史料・資料を読み、研究者からも突っ込んだ話を聞いた。

龍馬は「奇策は秘をもって成す」という強い警戒心の下で、行動していたようだ。自分に届いた手紙をすべて破棄している。妻のお龍においても、龍馬暗殺後に土佐・坂本家に入ったが、そこを飛び出すとき、すべての手紙を焼いている。夫婦の手紙隠滅から、龍馬の行動には見えてこない面が多い。それでも、深く掘り下げていくと、従来のイメージとは違った歴史観、龍馬像に出会う。

「頭髪はぼさぼさでシラミがわき、着流しの服も臭く、挨拶もろくにしないで、ぶらりと他人の家屋に入ってくる。龍馬は剣術好きだが、読書は嫌いだった」

ある長州藩士の日記には、そう書き遺す。脱藩浪人の龍馬は船乗りだから、風呂に入れなかったのか。まるでホームレス並だな。そんな思いで、私はいまも史料を読んでいる。

龍馬は読書嫌いだとか、本を読まない男だとか、幕末志士たちが龍馬をやや見下す内容などが他にも散見できる。

昭和40年代に、司馬遼太郎の新聞小説「竜馬が行く」が大ヒットした。「龍馬」でなく、「竜馬」としたのはフィクションだから、と司馬は考えたのだろう。司馬観による、新たな龍馬像が創られた。その人物像にしても、不潔な身なりの龍馬を避け、かなり美化し、女性に持てるように描かれている。

龍馬の行動には空白が多い。司馬は小説家の想像力で埋めている。創られた竜馬が一人歩きし、幕末史の中核に居座った面がある。

「小説とはいえ、司馬遼太郎には強引に史実の歪曲がある」

そう批判する研究者は多い。

近ごろの龍馬ブームに乗ったライターや編集者たちは、歴史関係の雑誌に『坂本龍馬の真実』という強いインパクトの見出しを踊らせている。読んでみれば、司馬史観の上滑りで、この程度かと落胆させられるのが常だ。およそ新発見などない。

京都の薩摩藩邸で薩長同盟が結ばれた。それは単なる口約束だった。「第二次長州征伐が起きても、薩摩は戦いに参加しない」というもので、西郷隆盛や小松帯刀(家老)は胸を叩いただけで、署名や捺印などしていない。

この段階の長州藩は、幕府側の百数十藩を敵に回しており、わが身を守ることが精いっぱいだった。破れれば、毛利藩がとりつぶされる極地にあったのだ。

「薩摩が長州に武力攻撃を加えない」

長州の桂小五郎はその口約束だけだと心もとないと判断したのだろう、話の内容を手紙に書いたうえで、立会人の龍馬に送り、裏書をもとめたのだ。龍馬は赤字で裏書して木戸に送り返している。唯一、龍馬が受け取った手紙を破らずに送り返したものだった。

それが幕末史の重大な証拠となった。(現在も、薩摩の西郷隆盛や小松帯刀家老の周辺からも、薩長同盟を裏付けられる史料が出ていない)

司馬は唯一、桂小五郎の手紙と裏書をもって薩長同盟が成立し、徳川幕府を倒したと、小説で展開した。一面で正しく、半面で違っている。【つづく】

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記者HP:穂高健一ワールド

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