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PJ: 穂高 健一

【ふたりのよこ顔】起死回生で、伝統文化の再構築になるか=横浜(2)
2009年09月29日 07:34 JST


「オンワード樫山ではデザインを布で表現する。横浜元町家具ではデザインを木で表現する」この職種は似ている、と内山さんは語る。(撮影:滝アヤ、9月1日、横浜) 

【PJニュース 2009年9月29日】(1)からのつづき。「木の文化では、日本は世界でもトップレベルです。良い刃物(カンナやノコギリ)があります。木にカンナをかけて美しく、仕上げていきます。西洋にはカンナで仕上げる発想がありません。ノコギリで自由自在に曲線、曲面を作り、ペーパーで仕上げていくのです」--木工職人の内田勝人さん(50)が教えてくれた。

幕末から明治時代に入ると、西洋人が数多くやってきた。家具を持ち込む。修復の依頼などの仕事が日本人に向けられた。木工職人たちが日本中から横浜元町に集まってきたのだ。かれらは曲線、曲面、どんなところにも対応できるカンナを改造した。それは数百種類におよぶ。西洋流のペーパーはつかわず、日本古来のカンナにこだわり、それを洋家具作りにも適用した。と同時に、横浜元町では洋家具が栄えた。

表通りにある家具屋、裏通りにある多くの工房、それらを総称して、横浜元町家具という。

長い伝統をもつ横浜元町家具が、昭和の高度成長期から、大量生産方式の安価な家具に押され続けはじめた。衰退の一途(いっと)をたどり、職人の数が片手で数えられるまでになった。作り手がいなければ、横浜の伝統技術の火が消えてしまう。

「150年の伝統を持つ、地場産業の火を消すな」

木工職人の内田さんは立ち上がり、横浜元町家具の継承に努めている。情熱の源はどこにあるのか。まずは内田さんの略歴を聞いてみた。1982年にオンワード樫山の企画室に入社している。洋服のデザインを担当していた。4年後には退職し、秦野の職業訓練校で学び、横浜元町家具の製作に携わる「睦商会」に入社した。

20代で一流企業からなぜ職人の世界に、と内田さんには転職の理由を聞いてみた。オンワード樫山ではデザインを布で表現する。横浜元町家具ではデザインを木で表現する。職種としては、ゼロから何かしら商品を作り上げていく、という点では共通するものがあるという。

「素材が布と木の違いだけです。オンワード樫山は大手企業ゆえに分業化でした。私にとっては、達成感と充実感に欠けていました。横浜元町家具の特徴は、お客と向かい合い、一点ずつデザインを打ち合わせて作る。完成品まで自分でできる、というの魅力がありました。それに惹(ひ)かれました」
デザイナーとしての魅力は、企業の規模の差ではなかったという。

内田さんはアパレル会社から家具業界に入るために、まず秦野職業訓練校(神奈川県)の木工科に入った。そこで一年間、勉強した。横浜元町には、創業が大正13年の?竹中、という家具店がある。そこの製作部隊である、別会社の(株)睦商会に飛び込んだ。

「入ってみますと、2、3年はカンナなどもてない。機械場で掃除、整理とか、単純作業ばかり。40歳、50歳までは鼻ったれ。60歳くらいにならないと、発言権もなかった」と話す。【つづく】

■関連情報
蓮華草元町工房
記者HP:穂高健一ワールド
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