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PJ: 長戸 稔

みじめな「アル中」―いつのまにか?ヤクザ大親分の組員になっていた―=三重・伊勢
2009年01月18日 10:11 JST


現在の三重県立・こころの医療センター玄関前・(以前の面影はない) (撮影:こころの医療センター提供) 

みじめな「アル中」-悪運は未だにつきていなかった(独居房の不安と恐怖)=三重伊勢 前回までのあらすじです。以下読んでください。

自分は1982(昭和57)年から本格的に酒を呑(の)み始めました。そして、1984年12月のクリスマス前夜に三重県立高茶屋病院(現・三重県立こころの医療センター)に入院しました。しかし、三重県立高茶屋病院から、強制退院をさせられてしまいました。

1987年6月に3度目の結婚をしたが、酒をやめる事ができずに呑み続けていました。そんなこんな不祥事続きで三重県に居られらくなりました。2人で流浪の旅を続けました。その人生の終着駅がヒロシマでした。その土地で「断酒」することができました。

そして「断酒継続」が今年5月で20年になります。その心の軌跡・行動の軌跡を書く事ができればと思っています。熟年期の人生を酒で失敗して「アル中」になった。アップ・ダウンの生活の中でつかんだ幸せです。

1988(平成元)年、51歳のころ、5月に広島県・ふたば断酒会に入会して、以来、酒とタバコを断ち切る事ができました。今は現役69歳のPJニュース記者として、まじめにやらせてもらっています。アルコールで悩んでいる当事者、家族、知人がいたら、この手記をぜひ読んでください。決してあきらめる事はなかった自分の体験記です。じょうずに文を書けませんが、本当に体験した事をありにままに綴(つづ)ったつもりです。

―酒に懲りない面々(1985年8月-47歳)―
独居房の生活も終わり、2階の「半開放病棟」へ移ることになりました。1)ヤクザの大親分(56歳)妻あり、2)女房の浮気を気にしている魚屋の大将(65歳)妻あり、3)教授と呼ばれている自称大学の先生(48歳)妻あり、4)指物師(さしものし)職人、「本物」と呼ばれている(72歳)妻・死亡 5)若旦那(身なりを気にしている)(52歳そこそこ)妻なし 6)仏壇屋の社長(70歳)妻なし離婚、7)俺(47歳)離婚、妻なし--。の計7人が「アル中」メンバーです。

独居房に一人で居た時は、あれほど、人と話したい、人恋しかったはずなのに、すっかり忘れてしまい、半開放病棟は天国にいる気分でした。他の人は知らないが私はそうでした。この半開放病棟には総勢28名が入院していました。精神病の人21人、アル中は7人でした。お昼のクスリ時間がやってきた(一日6回食前食後)。28人が一列に並んで口を開けて待つ。看護士がクスリと水を飲ませる。完全に飲むのを見届けてから次の患者に移る。吐き出す患者がいる。いまは知らないがこの時代(1984年ごろ)はそうでした。

「俺たちは「アル中」だよ、まともなクスリをだす訳がないやろ!「アル中」が治るクスリはない。性欲抑制剤だ!”とヤクザの親分が教えてくれた。俺はこの親分に見込まれて、面倒をかけている。面倒見がいい? 一日中、なにしろ、やる事がない。マージャンか、ピンポン以外にない。昼がきたらメシ。夜がきたらメシ。9時に寝る。翌朝6時に起きて掃除。・・・朝メシ。この繰り返し。

精神病患者はほとんど自分のベッドで座っているか、寝ていました。自分の意思がない。反抗もない。言いなりで素直そのもの。可哀想(かわいそう)なぐらい純心。この人らの親はこの子たちのおかげで、生活している人が大半だという。つまり「生活保護をもらっている」。この時代の医療行政はどうなっていたのだろうか?

半開放病棟(看護長以下4人)は独居房病棟と異なる事は・・・看護士に話しかければ話をしてくれる点でした。「アル中」同志の会話は自由。精神病患者が21人いるが患者同士の交流がない。その点「アル中」は酒さえ呑まなければ健常人となんら変わりがない。理屈が立つので看護士にとってはむしろウルサイ存在。看護人も一目置いていると言うより、カカワリタクナイ存在。

一日中の遊び行事は「花札」「トランプ」でオイチョカブ(看護士には絶対内緒)を開くこと。ヤクザ大親分が取り仕切る。花札賭博(とばく)は看護士らにバレている。摘発すると退院後の仕返しが怖いので見つけても見ないフリを装う。7人は「マージャン組」と「花札組」に分かれるが「マージャン組」の4人共オイチョカブもできる。

夏も終わりかけたころ、俺はいつものように「マージャン」をしていた。牌(パイ)が右手で掴(つか)めなくなつた。何回繰り返してもバラバラになる。「くも膜下出血」の2回目の再発で兄弟病院の津・神田病院脳整形外科に1986(昭和61)年1月半ば、約3カ月間の緊急入院した。48歳だった。大手術の末に退院したが不思議にも生きていた。

「死んだと思ったお富さん!生きていたとは・・・」。半開放病棟に逆もどりした。生きていたとは・・・この奇跡に高茶屋病院の先生も、「アル中」全員がビックリした。一躍(いちやく)、高茶屋病院内で有名になった。こんな事で有名になるとは以外だった。ヤクザの大親分が物凄(すご)く喜んでくれて、組に電話して、子分らが差し入れをしてくれて盛大な退院祝いを半開放病棟でやってくれた。俺も完全に組員になってしまった。エライ事になった。

―ヤクザ大親分と仲良く開放病棟に移る―
2回目の「くも膜下手術」再発で「左目失眼・右手麻痺・言語障害・・・」を患(わずら)う。この大手術で改心して、懲(こ)りて、とことんまで落ちに落ちた人間なら断酒の道に立ち向かうだろう、と担当医師が「開放病棟」に移る事を決断してくれた。

病院の土地が近くにあるので、県下で最初の社団法人『三重断酒新生会』が設立されていた。『高茶屋病院内断酒会』が、ヤクザ大親分と一緒に本格的に、毎週土曜日に、一般の断酒会員と共に勉強する機会を与えてくれました。

私たち二人は社団法人・三重断酒新生会の門をくぐる事になりました。ヤクザの大親分と死にはぐれの俺。その存在はそのころ、異色だったに違いなかった。入会にあたり、院内の壁にデカデカとはってある『断酒の誓い』を院内断酒会員約30人の前で、大きな声で読み上げる事になった。ただ、俺は声がでないので立って並んでいるだけでした。

『断酒の誓い』を親分一人で読み上げた。
一、私たちは酒に対して無力であり、自分ひとりの力だけでは、どうにもならなかったことを認めます。
一、私たちは断酒例会に出席し、自分を素直に語ります。
一、私たちは酒害体験を掘り起こし、過去の過ちを素直に認めます。

ほか3項目あります。『心の誓い』、『家族の誓い』があります。その後、まじめに半年間は「断酒例会」に通い続けました。1987(昭和62)年2月、酒が呑みたくて高茶屋病院を脱出して、国道23号線を伊勢に向かい南下、途中再度の無銭飲食にて松阪警察につかまり留置場へ。保護観察で行く所なし。もちろん、高茶屋病院は強制退院。100%望みなし。万事休す。今度は警察の計らいで私立の精神障害者専門の「松阪厚生病院」に放りこまれる。

しかし、病状が急変して、救急車で「国立・松阪中央病院」に緊急入院。1週間意識不明の末、悪運が強く意識回復『ICU治療』。その病院に勤めていた保健婦が、身元引受人なってくれて、私の命を拾ってくれました。誰が僕のような「アル中」と結婚してくれますか。今も時々考えますが、「運命」とはこんなものでしようか。不可思議です。その人が現在の家内です。娘が高1です。

【つづき】を書きたい。身体が本調子でないので、ポツポツですが許してください。次回書けたら、みじめな「アル中」―三重県に居れなくて、「ヒロシマ」に逃げた。「断酒継続」20年、としたいと考えてます。この内容を少しだけふれます。

独居房の室(へや)がなぜ斜めになっているのか?・・・それは自分の場合はウ ンチも、オシッコも垂(た)れ流しだったからです。非常にキタない。掃除する水道の水がスムーズに流れるようにしてあったのです。

テニスコートがある理由は?・・・成績の良い人、逃げ出さない安心な患者が身体を鍛えるために練習をするためです。俺は半年いたのですが1回も外に出してもらえなかった。

断酒の原点とは?・・・深く内心を見つめて、なぜこの様なところにいなくてはならないのか。とことん反省をするためには“過去の自省”しかない事を気付かせるためです。一応【つづく】

■関連情報
断酒の体験記に関して知りたい方へ。住所は三重県伊勢市宮後2丁目7-25 長戸稔 携帯は090-3589-2757です。気軽にお電話下さい。

重信房子さんは『パブリック・ジャーナリスト宣言。』(小田光康著)をこう読んだ

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